パウロがローマの信徒への手紙で言いたかったことが1章16節から17節に集約されています。
― わたしは福音を恥じとしない。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ローマに住みキリスト者となったユダヤ人たちは、だからといってユダヤの律法の力がなくなったとも割礼の意味が失われたとも思っていませんでした。以前と変わらず律法を行うことで義とされると信じていましたし割礼の傷がその保証となると誇っていたのです。パウロはそんなユダヤ人キリスト者たちの誤った律法理解や選民意識を正さなければなりませんでした。またローマ教会の半数近くを占めていた異邦人キリスト者(ギリシア人)たちの放縦な生活態度や不信心に対する教育にも心を燃やさずにはいられなかったのです。
今朝のテキストにおいてパウロは、全人類が神さまの前に罪人である事実を告げます。さらにそれが自分の意見やその時代特有のもの、といった限定的なものではなく永遠の真理であることを証明するために、旧約聖書から多くの言葉を引用します。3章10節以降には原文通りではないにしろ、詩篇からの言葉があふれています。パウロは、ここにおいても神の義や神の真実の絶対性を強調します。
それらは人の不義や不誠実によって測られたり判別されたり評価されるようなものでは決してなく圧倒的で全き義であると。また律法にはユダヤ人たちが信じて いたような特権はなく罪の自覚を生じさせるだけだと。この段階ではまだ福音は見えてきません。ユダヤ人も異邦人も忍耐!です。続けて読んでいきましょう。