今朝のテキストはマタイ固有の「裁きについてのたとえ話三部作」「ぶどう園に関するたとえ話三部作」の2回目です。ただし今朝の箇所だけはマルコもルカも扱っておりマタイ特有の記事ではありませんし、順番も記載順に言えば3番目です。私のケアレスミス故に不自然なカタチになりました…(_ _*)

 今朝のイエスさまのたとえ話は驚くほどよく分かります。でもだからといって字面を読んだだけでは、えぇっ!?…、声を上げてしまうのではないでしょうか。説教では45節46節を取り上げませんでしたが私たちもイエスさまの言っておられる厳しい裁きが実は自分の上に下されるのだと知って絶句してしまうのではないか。いえいえだからこそイエスさまは詩編(42節)の一部を引用されたのです。イエスさまは凄い!

 私たちは裁かれるしかない罪人なのだ、強欲で邪な農夫たちと何ら変わらないんだ…。読者はまずこの絶望的な事実をかみしめなければならないと思います。一旦絶望の淵に自らを置くべきだと思うのです。私は罪人なのだと自らを正しく見極め諦めた時に、自分で自分を握りしめている手を離した時に、詩編の「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という一句が私の希望の光となって輝き出すのでしょう。そして続く「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」という一句にしみじみ共感できるのだと思います。イエスさまは今日も私の親石で居てくださいます。これ以上の恵み、喜び、幸い、感謝はありません。