パウロは、ローマの信徒への手紙の中心的テーマとも言うべき言葉(1:16-17)を挨拶文に続けて掲げ、それ以降(19~)ひたすら罪について述べてきました。創造者なる真の神を知らない全ての異邦人への神の裁きの告知を皮切りに、ユダヤ人たちも異邦人同様裁きから逃れられないことを告げます。律法は救いをもたらさないという彼の言葉は、多くのユダヤ人キリスト者に怒りを起こさせたに違いありません。「正しい者はひとりもいない」。この断言はローマ教会の信徒たちの心を強く揺さぶったと思われます。

「ところが今や」。今朝のテキスト冒頭のこの接続詞からパウロは一転「福音」を語り始めます。「ところが今や…神の義が示されました。」義なる神さまが、罪人を救うために「キリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」というくだりは圧巻です。そして私たちはここへ来てやっとパウロが何故あれほどまでに罪の自覚を迫ったのか、その理由に気づくのです。罪人を救うために義なる神さまがどれほど悲痛な決断をなさらなければならなかったか。罪なき神の独り子の贖いの十字架がいかに尊いものであるか。罪の自覚のない心にヨハネ3章16節は豚に真珠です(マタイ7:6)。キリスト者は常にイエスさまの十字架に立ち返って信仰を吟味すべきでしょう。ただしくれぐれも吟味の仕方を間違えないようご注意を!