今朝のテキストは、信仰義認というパウロの神学を端的に説明している箇所です。パウロは取り分けローマ教会のユダヤ人キリスト者に配慮しつつ、語っているように思えます。何故なら彼の主張は聞き方を誤るとユダヤ人をひどく傷つけることになり兼ねないからです。

「ユダヤ人の誇りは取り除かれた。」律法と割礼を誇るユダヤ人には、依って立つ足場を取り払われたかに感じられる言葉かも知れません。「人が義とされるのは律法の行いによるのではない。」律法を行うことで義とされると信じて励んできたユダヤ人でしたから、これまでの努力は何だったのか!との嘆きが聞こえてきそうです。「神はユダヤ人だけの神でしょうか。…異邦人の神でもあります。」律法には、私は…あなたを奴隷の家から導き出した主、と書いてある。奴隷の家から神によって救い出された民が私たちのほか、世界のどこに存在するというのか。反発ごもっともです。

しかしパウロの弁論は更なる反論を寄せ付けない確信に満ちています。同時に私たち読者は、パウロの言葉に秘められた彼の強い同胞愛をも感じ取ります。そして感動を覚えるのです。「割礼のある者を信仰のゆえに義とし」「私たちは信仰によって…律法を確立するのです」パウロは、一方的にユダヤ人愛して神の民となさった神さまのみ心を正しく語り教えることで、ユダヤ人が真の神さまに立ち返るようにといつも祈り、切望していたのですね。今朝のテキストはまた、信仰義認が私たち異邦人にとっても福音なのだと確信させてくれる嬉しい箇所でもあります。