イースターおめでとうございます。

 昨日ひんやりとした朝の空気の中で想像していました。イエスさまの亡骸が納められた石窟のお墓のことです。安息日が始まるぎりぎり(金曜日の夕方🕔)に十字架から取り降ろされたイエスさまの亡骸は、とりあえずの処置を施されてアリマタヤのヨセフとファリサイ派のユダヤ人ニコデモの手によって真新しいお墓に安置されました。

 4人の筆者がそれぞれの福音書に異口同音に記しています。週の初めの日(日曜日の朝🕖)夜明けを待って女性(たちが)墓に走っていくとお墓は空っぽでした。

 その状態を「空しい墓」と呼ぶことがあります。そもそも墓自体が空しいものなのではないでしょうか。そこには空しい「死」しかないからです。むしろ復活されて墓から出て行ってしまわれるまでイエスさまの命が満ちていたあの墓こそ「空しくない墓」だったのでは…なんて(笑)。そうなのです「空しい」の意味が違うのです。

 コロナが蔓延して一向に終息さえも見えて来ない現代。ウクライナをはじめとして現在分かっているだけで世界の14の国や地域で紛争や暴力による抑圧、虐待が起こっているという情報があります。現代という時代も平和を作り出すのが極めて困難な世界も、ある意味で「空しい」時代であり「空しい」世界です。

 せめて命の主、平和の主であるイエスさまを知る私たちキリスト者は「空しさ」の対角で生きつつ「空しさ」の中にも一縷の「希望」があることを信じて、積極的に見つけながら生きていたいと思います。その姿勢をイエスさまが用いてくださることも信じながら。