創造主なる神さまが土の塵で人を造られた時、同時に彼に喜怒哀楽をも与えられた。感情を持つ人を含め神さまはすべてを「極めて良し」とされた。それ故に否定的な感情「怒・哀」も神さまからの賜物であり祝福の内にある。怒る私も悲しむ私もどんな私も、いつも創造主の慈しみ深い視線の内に在る。

 そう思うと激しい感情に翻弄されて疲れ果てる愚かささえ許せるような弛~い気分になります。

 ある時ある牧師から「怒りを悲しみに変える」という言葉を聞きました。どういう文脈で語られたか覚えていませんが心に止まりました。後日どういう意味かを尋ねましたが、納得のいく答が得られなかった残念さだけ、今も覚えています。

 自分に対して怒りを発することもありますが基本的に「怒る」は他者に向かう否定的な感情だと私は思います。怒る側は常に被害者意識をもって相手(加害者)に対して弁償を要求しようとする。一方「悲しむ」は自分に向かう否定的な感情といえると思います。被害者であっても加害者であっても「自分」が悲しいのです。同じ否定的ではあってもふたつの感情はかなり違うな、という印象です。

 では「怒りを悲しみに変える」とはどういうことなのか。他者に向かっていた怒りが自分に向かった時、自分を(に)怒るのでなく怒っている自分を悲しむ…ということでしょうか。「悲しむ」にも色々あるでしょうが、否定的感情の矛先を自分の身に引受けようと「意志する」時そこに別の何か、否定的でない何かが生じるような気が…しませんか?今朝は「平和祈念礼拝」です。