パウロは「私は何と惨めな人間であることか。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのだろうか」と嘆きました。確かに私たちは惨めなのです。自分の肉に宿る罪と悪の力から自らの力で手で抜け出すことが出来ないのですから。

 しかし彼パウロは同時に「イエス・キリストを通して神に感謝します」とも述べています。彼は人の、霊と肉の狭間での自己矛盾と葛藤を神さまがイエスさまを通して既に解決してくださっていることを知っていたので、嘆きつつも感謝しないではいられなかったのでした。しかしその方法は神さまに大きな痛みを負わせるものでした。

 神さまは愛する御子を「罪の肉のかたち」で私たちのためにこの世界に送り、私たちと同じ弱いイエスさまの肉において罪の力を処罰されたのです。私たちキリスト者がどんな時にもどんな事にもイエスさまの十字架を忘れてはならない理由がここにあります。

 神さまはまた、御子の贖いの御業に与った私たちの内に聖霊を与えて下さいました。私たちを変え律法の望む清さと正しさを実現するために、神さまの義を確立するために私たちをお用いになります。その御業の器として選ばれたことを感謝し自分の体と心と人生を大切にしたいと思います。

 イエスさまの命によって生かされている者として、その命につながれている者として感謝と賛美の日々を送りたいと思います。私たちが信仰義認という尊い真理に生きるために支払われた犠牲の大きさに思いを至らせつつますます自らをささげ委ねて歩みたいと、心から思うのです。