「わが主の愛」
                     エフェソの信徒への手紙3章14-21節
 今朝は予定を変更して「エフェソの信徒への手紙」から、キリストの愛の広さ、
長さ、高さ、深さがどれほどであるか、について聞きます。愛を測る物差しはある
とすれば皆さんお一人ひとりの心にあるのでしょう。多く愛されてきた人は目盛り
の大きな物差しを持っていると思われますが、それとて「多く」自体が人によって
異なりますから比較になりません。パウロがこのテキストで言おうとしているのは
私たち信仰者がイエスさまの愛に与るものであるように、全ての言動、人生…が、
キリストの愛によって押し出されていくように、更にそのために聖徒たちに天上の
知恵を与えて下さるように、ということでしょう。パウロはそれを教えるのでなく
すべての聖徒のために祈っています。身を屈めひれ伏して祈っています。私たちは
見ず知らずの異邦人のためにこれほどまでに取り成しの祈りを献げてくれるパウロ
の姿そのものに「愛」を感じて感動しないではいられません。愛の威力は凄い!
雅歌に「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください。愛がそれを望むまでは、愛
を呼び覚まさないと。」(8:4 ほか)とあります。ここに「愛」というものの特質
の一面が表わされていると私は思っています。愛は人の如何によらない。作為とか
努力とか頑張りとか願いとか、そんな人間的なものと少し距離をおいた「感情」、
どこかで「天」とつながっているような「感情」なのではないか、と思ったりしま
す。愛を分類したりしますが、確かに人の愛はどこまでいっても欠けています。人
そのものが欠けを持つものなので当然でしょう。しかし人が最もその弁えをなくし
てしまうのも愛という感情の部分かも知れませんね。