ルカによる福音書1章26-38節 待降節も3週目に入ります。いよいよ次主日はクリスマス礼拝。翌24日夜にはクリスマス・イブ礼拝をささげます。 今朝は、マリアへの受胎告知の場面から聞きます。毎年毎回のことながらマリアという女性への興味は尽きません。今回特に気づかされて驚いたことは、マリアが天使の出現というありそうにない場面にあって到底信じられないような告知を聞きながらも、そのお告げの言葉をきちんと把握していたことでした。そして的確に応答しているのです。神さまの選びは人には分からないし理解も出来ませんが、ふさわしい女性が選ばれていたことは確かだと思わないではいられませんでした。マリアはまだ年端もいかず、今でいうなら小学校の上級生から中学生くらいであったということです。その歳ですでに婚約をしていた(させられていた)のです。彼の時代、ユダヤはローマ帝国の属州であり民族として生き残れるかという大問題を抱えていました。そんな国家存続の一翼をマリアたち若い女性が担っていた、といえば聞こえはカッコいいですが、人権を認められさえしなかった彼女たちには唯々子孫を産むことが課せられていたのです。ひどい人権無視です。そんな中で彼女は聖霊の力によって神の子を産む決意をします。完全に自分を神さまに明け渡し脱力し切ったマリアの姿に感動します。ここまでも人は神を信じ抜くことが可能なのだと彼女が教えてくれます。神を信じ抜いたマリアの人生は、この世の価値観からすれば「しあわせだった」とは、到底言えないものでした。でももし天上で彼女に会えたら敢えて訊いてみたい。「あなたは自分の人生が祝福に満ちて最高に素晴らしかったと思っているのでは」と。

せっきょう・まえせつ2018.12.16