―福音の進み行くところには騒動が待っている―。イエスさまのご生涯もパウロの回心後の人生も、この世の価値基準で判断するなら悩みと苦難と痛みと…、辛いだけで良いことなんてひとつもなくて何のための人生!?…って思わず言いたくなるほどです。ほんとはそうではないことを、天的基準を知っている私たちキリスト者は知っているんですけどね。「確かに悩みも苦難も痛みもいっぱい。だけどそれらを補って余りある恵み、喜び、感動があるんですよ!」と大声でと叫びたい。コロナ危機に打ちのめされている世界に向かって。
エルサレムに帰還したパウロの一行を待ち受けていたのはまたもや敵対者たちでした。けれどもパウロにはいつも神さまの具体的な助けも用意されています。今回は「主の兄弟ヤコブの知恵」でした。それで一難を免れることができた、と思えばまたすぐに次の困難です。それはアジア州から来たユダヤ人たちからの暴力でした。どうも彼らは直情的で喧嘩っ早い、すぐに熱くなって暴れます。その根っこにあるのは結局はユダヤ人の選民意識なのでしょう。パウロの言いたいことをきちんと理解とせず、早とちりと噂話だけで「この男は我々の敵だ」と判断し怒るのです。エゼキエル書に「わたしが主であることを知るようになる」という言葉が出てきます。厭というほどたくさん!つまりそれだけ「人が、神さまが人の主である」ことを認めるのが難しい、ということなのでしょう。一番神さまを愛しているという彼らが分かっていないのですから。