いよいよエゼキエル書の核心部に入ります。神の民の歴史上最大の艱難とも言うべきバビロン捕囚。その本質的な原因が明らかにされていきます。
 捕囚民たちは、自分たちは神さまから捨てられてしまった、捕囚にされ放り出されたのだ、と絶望していました。一方エルサレムの残留民たちは、この悲劇を招いたのは連行されていった人たちのせいだと考えていました。捕囚民の多くが王をはじめとするいわゆる国家の要人や宗教指導者たちだったからです。つまりイスラエルの人々の誰も、この艱難が襲ったのは「自分の罪」のせいである、とは思っていなかったのです。
 18章2節に古くからパレスチナで言い習わされてきた諺が挙げられています。これは本来は連帯責任の重要さを説く教訓でした。それをイスラエルの人々は艱難辛苦を被るに及んで、酸いぶどうを食べた先祖の過ち(神さまへの背信)の報い(歯の根が浮く:噛み心地が悪くて頼りなく不快)を自分たちが被っている、神さまの罰を負わされている、と解釈しました。
 そんなイスラエルの人々に対して神さまは今朝のテキストの中で2度続けて問うておられます。お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
 この言葉をどう聴くでしょうか。-私はキリスト者でありながらいつも被害者然として自己責任を回避し、自己を正当化し保身に汲々としているのでは-。そんな不安が心を過ぎったなら、人生転換の糸口はすぐ見つかりますよ✌