「主はダビデを誘われた」
 9月から読んで来たサムエル記上下巻の最終章を読みます。物語の最後はハッピー・
エンドであってほしいものですが、サムエル記の記者は淡々とダビデの失敗談を綴り
神さまの裁きを語り、ダビデの悔い改めの祈り、その証しとしての行動によって「イ
スラエルに下った疫病はやんだ」と物語を閉じます。失敗したことに気付くやただち
に悔い改め、裁きを神さまに委ねて厳しい罰に耐えたダビデを神さまは一層御前に近
づけられたのではないか、そんなニュアンスを残しつつ物語は終わってます。
 「主はダビデを誘われた。」と24章の1節にあります。イスラエルがまたもや神さま
の怒りを買うような罪を犯したために、ダビデが王として、しかも神政国家の王とし
て御心にそった振る舞いができるか否か、神さまは試されたのでした。その試みとは
兵士の数を数える、ということでした。軍備を整えることは国家の責任者として為す
べき当然のことですが、ダビデはここで神さまから信仰を問われたのです。勝利を与
えるのは兵士であろうか、と。ダビデの将軍のヨアブは、王に的確な助言を与えます
が残念ながら王は聞く耳を持たず人口調査を敢行してしまいます。もたらされた結果
を見てようやく、ダビデは自分が神さまに対して大きな罪を犯してしまったことに気
づくのです。「わたしは重い罪を犯した、大変愚かなことをした…。」悲痛な王の嘆
きです。どんな窮地にあっても神さまに信頼し、その篤い信仰のゆえに神さまから愛
され祝されてきたダビデ。そのダビデでさえも慢心するのです。でもダビデが凡人と
異なるのは、罪に気づくやなり振り構わず神さまに向かって悔い改め、赦しを乞い求
めたことでした。そんなダビデだからこそ、神さまは嘉されたのでしょう。