私たちはイエスさまを信じお従いしていく信仰を与えられ、キリスト者と呼ばれるようになりました。だからと言ってキリスト者でない人たちが人生で被る試練や苦悩を回避できるわけではありません。むしろキリスト教信仰を持つことで悩みや苦しみが増えることさえあるほどです。

 パウロは福音伝道者としての使命を全うするために働いて大変な目に遭いました。ユダヤ教のラビ(教師)として尊敬を集める人生だって選択できたのに、です。説教では読まないのでⅡコリントの「苦難のカタログ」から抜き書きします。

 投獄、鞭打ち、死ぬような目に遭う。石を投げられ、一昼夜海上を漂い、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭った。苦労し骨折ってしばしば眠らず、飢え渇きしばしば食べず寒さに凍え裸でいたこともあった。他にもある上に日々私に迫る厄介事、教会についての心配事…。

 信じられないほどの苦難に遭ってもパウロはイエスさまの働きをすることを無上の喜びとしたのでした。何故か。その理由が今朝のテキストで明かされます。

 一言ではとても言い尽くせませんが、イエスさまがそれ以上のことをパウロにしてくださったから、だと私は想像します。私みたいな小者でも救われた時のことを思う度にちょっとでもお返しが出来たらなぁ…なんてつい思ってしまいますから。霊的な命を救われるということはこの世の一切を突き抜けて遥かに凄く尊い恵みなのだと肌感覚で分かる気がします。