私たちキリスト者とも関連するテーマについて考えてみます。それは、過越祭と新約聖書、分けても主の晩餐との関係です。

マタイの福音書を繙いてみますと26章2節に、あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。というイエスさまの言葉があります。イエスさまは過越祭の期間を選んでエルサレムへとやって来られたのだと、マタイは言うのです。

ユダヤの三大祭には、アジア州からヨーロッパ、アフリカに至る広範な地域から、迫害などによって散らされていったユダヤ人たちが神殿詣でのためにやって来ました。そのユダヤ人たちの目の前で十字架に架けられることに意味があったからです。それだけでなくイエスさまは、最もお傍にあってイエスさまに仕えて来た12弟子と共に過越しの食事をしようと思われたのでした。過越しの出来事を想起する食卓で、パンを裂いて彼らに分け与え、それからぶどう酒を回し飲むようにと、言われました。これから起こること、すなわち十字架の死について12弟子に語り、彼らを通してこの主の晩餐を再臨の時まで述べ伝えさせようとなさったのです。

過越しの食事は、イスラエルに、民族の命をつないだ出エジプトを想起させ、伝承させるためのものでした。主の晩餐は、12弟子から始まるキリストの弟子たちに、罪の許しと新しい命を得させる十字架の死を想起させ、再臨の日までその死を語り継がせるためのものであったのです。ここに、旧約聖書の過越しと新約聖書の主の晩餐が重なるのです。