今日の説教題を、信仰が揺らぐ時、としました。しかしアブラムが神さまに祈るより先に自らの考えで行動を起こしたことが果たして「信仰の揺らぎ」のせいだったのでしょうか。詩編30編7節、8節。
平穏なときには、申しました
「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
主よ、あなたが御旨によって
砦の山に立たせてくださったからです。
しかし、御顔を隠されると
わたしはたちまち恐怖に陥りました。
詩人は「決して揺らがない」と謳いつつでも主の御顔が見えなくなった時には自分は恐怖に陥った、とも告白しています。つまり詩人は主の御顔を見てさえいれば自分は揺らぐことなく居られるのだと、自らの信仰を告白しているのです。神さまの存在を大前提に生きている証しです。
しかし「信仰が揺らぐ」とは、神さまが本当に居られるのか、本当は居られないのか、その狭間で気持ちが行き来することを表わしているのではないのでしょうか。30数年も前のことですがバプテスマを受けて間がない私に「信仰は後戻りできない」と言われた方がありました。ひとたび神さまが存在されることを知ってしまったら、いややはり存在されないかも…などとは決して思えなくなる、というのがその人の主張でした。
私もその通りだと思います。天国への切符は確かに片道しかない。何故なら復路がない、後戻りできないからです。アブラムと詩編の詩人の信仰について思い巡らせるなら、時に信仰者らしからぬ言動があるにせよそれを理由に「彼らの信仰が揺らいだ」などとは言わない、と私は言いたいのです。