本日の礼拝を「平和を祈る礼拝」として守ります。

 「世界平和を祈る」という時、どこか自分とは遠く離れた出来事のように平和を概念的に捉えて焦点のぼやけた祈りをささげる向きがあるでしょうか。

 しかし情報がこれでもかと溢れかえる現代なのです。戦争体験がない人が圧倒的多数を占める私たちの国にあっても、戦争の悲惨さに震撼した画像や涙なしには聞けなかった戦争体験の証言の記憶のひとつやふたつ、誰にでもあるに違いありません。その事柄が自分の身に起こっていたらと仮定することは、そんなに難しいことでしょうか。

 聖書を読む時だけでなく祈る時にも必要不可欠なのはイマジネーション。体験の有無ではありません。自分を吟味している時間はありません。私たち現代のキリスト者は「祈り人」として召されているのですから今こそ勇んで使命の遂行に集中しようではありませんか。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。エフェソ2:14a

 エフェソ書の筆者はキリスト=平和である、と言い切っています。世界で戦争や紛争、内戦が起こっています。コロナとの戦いに明け暮れています。自然災害に苦しんでいます。

 しかしこの現代の暗闇のただ中にイエスさまは立っておられ、キリスト者の小さな祈りを通してご自身の香りである真の平和を作り出し続けておられるのです。その御姿を胸に映しつつ私たちの祈りを古の詩人の祈りに重ねるのです。

私の祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください。詩141:2