「心に場面の絵を描こう。自分を描き込もう。」と勧める私ですが、今朝のテキストは、登場人物の‘誰’に私を重ねて読むか。そうすることで更に迫ってくるものがある箇所だと思います。

 ここにはたくさんの人が登場します。イエスさまを安息日に私宅のランチに招いたファリサイ派の議員、共にその食卓を囲んでいる人々。彼らは14章の冒頭に出て来ます。そして、神の国で食事をする人は何と幸い!と声を挙げた人はその中の一人だったでしょう。

 テキストに入って、大宴会を催した家の主人。主人の言いつけを忠実に守った僕。招きを受けていながらドタキャンした人たち3人。これはイエスさまの喩え話ですから実際はもっと多くの人がイエスさまの視野に入っていたはずです。そして、町の広場や路地に居た貧しい人、体の不自由な人、目が見えない人、足の不自由な人。通りや小道に居た人々。まるでこの世界の縮図みたいです。

 小見出しにあるようにイエスさまは「天の国」を大宴会に喩えられました。そして、この国に招き入れられる人は誰だろうか、言下にお尋ねになるのです。24節の言葉が突然、不気味に光り始めます…。

 登場人物の誰かに自分を重ねて「私、招かれている?招かれていない?少なくとも24節の‘あの人たち’ではないはず。だって私はクリスチャンだもの。」と思って胸を撫で下ろした人、本当に大丈夫?キリスト者になれて安心、キリスト者なのよという自信、キリスト者だものという慢心。心の中の3つの‘しん’に常に気をつけていたいですね。