神の国を見たことがある人はイエスさまただ一人!ほかの古今東西老若男女の誰一人見たことがありません。
通常「たとえ」を用いる場合には相手が具体的に思い起こすことの出来る物とか人、知っているに違いない出来事や物語…などの情報が既にインプットされていることが前提となります。神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか…。イエスさまが考えあぐねておられます(´艸`) ですよねぇ、だって人の中には神の国に関する情報の欠片もないのですから。
直前の「成長する種」のたとえは人々にはもうひとつピンと来なかったようでした。ここでお話を聞いていた人々とは文脈からして12人と、イエスの周りにいた人たち(10節)だったと考えられます。多分ほとんどが漁業関係者だったでしょう。その人たちに畑に蒔いた種の話をしても…。
いえいえ、種から収穫までの作物の変化を見て知っている私たちでも、何で変化するの?と訊かれたら思わずうっ!?と言葉に詰まってしまいます。イエスさまがハタと膝を打って、それはからし種のようなものである、と言われました。
パレスチナに住む人なら目に見えるか見えないかほどの種から出た芽が3㍍にもなるのを知っています。でも、神の国はからし種に似ているって言われても…。つまり神の国とこの世界とはそもそも比較できないのです。どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる。そう!差し出される不思議をそのまま受け取ること。それが神の国なのでしょう、きっと。