私事で恐縮ですが、毎主日の説教箇所と説教題は前月の執事会までに1ヶ月分を決めます。奏楽奉仕者に応答賛美以外の賛美歌を選曲して頂くため、また掲示板に張り出す説教題の毛筆書きをしてくださる奉仕者にお知らせするため、です。なかなかに時間のかかる作業で間に合わないことも多々ありますが…。聖書の範囲を決めて何度か読みながら説教題を決めます。

 先月、今朝のテキストを読んだ時に心を捉えた言葉が今朝の説教題でした。この時「私もイエスさまに触れたい…」と思ったのだと思います。先週に入って準備を始めながら、こんな説教題が頭に浮ぶとはと、潜在的な疲れが自分の中に蓄積しているなと感じました。コロナ危機だけでなくウクライナでの戦争の終息が見えて来ないことが大きく影響しているのは確かです。つまりこの疲労感は私だけでなく多くの平和を希求するキリスト者が抱えているしんどさ、疲れなのだと改めて気付かされます。皆さんお疲れ様です、お互いに。

 先日も他教派の友人と話していて「何か出来ることはないか」との話になりました。何も出来ないことが分かっていても何とかならないか、祈るほどに思いが募るこの気持ち、分かる分かる。その苛立ち焦りそして力の無いことに対する空しさが疲れとなりイエスさまに触れたいという衝動的な願いへと向かって行った、というのが自己分析の結果です。ところで今朝のテキストの夥しい病人集団の「触れたい」衝動は自己中心的で決して信仰的ではありません。あらま、じゃぁ私も!