「逃れの町」というのは一体どんな町で、誰が住んでいて、逃れてきた殺人者はどのような取り扱いを受けたのでしょうか。これについてはヨシュア記、民数記、申命記3つの書物にほとんど差がありませんので、共通する事柄を箇条書きで挙げてみます。
1つ目。殺人者がこの町に逃げ込む時は、まず町の入り口で、長老たちに人を殺してしまった訳を申し立てること。
2つ目。長老たちがその理由がもっともだと認めた場合、殺人者は町に受け入れられ、場所を与えられて住むことができること。
3つ目。血の復讐をする者が追って来ても殺人者は復讐する者に引き渡されることはないということ。
4つ目。殺人者は「逃れの町」にて裁きを受けるまでの間、もしくはその時の大祭司が死ぬまでこの町に留められるということ、そしてそののち殺人者は自分家、逃げ出して来た町に帰ることができること。この4つを挙げています。
読んでいて、気になる点が2つあります。殺人者が町の長老たちから受ける裁きとはどのような裁きなのか、ということ。もう一つは、この殺人者の放免と大祭司の死とが、どのように関連付けられているのか、ということです。
先ず裁きについてですが、申命記には、共同体すなわち「逃れの町」が裁くのは、殺人者と血の復讐をする者の間について判例に基いて裁く、と言った意味のことが書かれています。つまり「逃れの町」の長老たちが殺人者に有罪、無罪の判決を下すという意味ではなく、長老たちが殺人者と血の復讐をする者、両者の間に入って和解や調停を促す、あるいは示談に導く、そんな意味であろうと思われるのです。