ルカが記す「イエスさまの喩え話」に登場する人物たちは、対角にあるカテゴリー(枠)の象徴的存在なので、読者は必然的に自分がどちら側の人間であるかを見せつけられる結果となります。それが「イエスさまの喩え話」の狙い目なのでしょうが。

 サマリア人と祭司&レビ人、「放蕩息子のたとえ」の兄と弟、金持ちとラザロ、規定の病を癒されたサマリア人とユダヤ人たち、そして今朝のテキストのファリサイ派の人と徴税人などなどルカ特有の喩え話を読みながら、大抵は「自分はこっちに属している」「こっちに属していたい」と思うのと反対側にいる、という厳しい現実と向き合わなければならなくなります。その痛みを自らのための転換点とするのか、怒って聞かなかったことにするのか、信仰の試金石かも知れません。

 確かに本当のことを言い当てられると人、は感情的になり腹を立て怒りを発します。しかし落ち着いて自分の怒りと向き合うことで、第三者の視点から自分自身を見るという視点、が与えられていくように思います。今朝のテキストも、自らに徴税人を重ねて私はファリサイ派の人のようでなくて神さまに感謝!と読んだ、としたら…。

 人は歳を重ねるほどに自己研磨のチャンスが無くなっていきます。これと反比例して自己執着が増えていく。いわゆる頑固化が進むのです。そんな霊の老化、精神の萎縮を食い止めてくれる最高の妙薬がみ言葉です。み言葉は確かに超苦いし超痛い。しかし(主は)長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。(詩103:5)どうか事毎に、賢い選択ができますように。