私たちがこのイエスさまの言葉を読むにあたり意識しておくべき点は、この教えを聞いている人たちが「誰であるか」ということです。
イエスさまは、このことを山上の説教の中で語られました。そしてそこにいた聴衆とは弟子たちであり、社会的弱者と呼ばれる人たちでした。
以前、日本国際飢餓対策機構の職員の方のお話を聞く機会がありました。こんなことを仰っていたのを思い出します。私たちは「今日は何を食べようか」と考えるが、ある人たちは「今日は何か食べられるだろうか」と考える。
イエスさまの教えを一生懸命に聞いていたのは後者、今日は何か食べられるだろうか、と日々思い悩んでいた人たちでした。弟子とは、イエスさまの召しに応答して家族と生業を故郷に残して、つまりは生活の基盤を捨てて宣教の旅に同行した人たちです。また、イエスさまの後ろをついて歩いていた群衆とはどんな人たちか、マルコがイエスさまのつぶやきを記録しています。群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。元々生活基盤を持たない、持てない人々だったのです。
私たちは、このことを前提にこの文章を読まなければなりません。そうでないと、今朝のテキストが「無為徒食の勧め」のように聞こえてしまいそうだからです。自分たちの命や体が何より大事であることを天の神さまはご存じなのだから、働かなくても神さまが養って下さる、大丈夫大丈夫!と言ったような誤解を招く可能性があるからです。
そうではなくイエスさまは毎日毎日を「今日は何か食べられるだろうか」と心配しつつ過ごす人々に向かって、思い悩むな、と仰るのです。鳥は種まきも収穫作業も貯蔵もしないけれど、ちゃんと生きている。それは神さまが鳥を養っていて下さるからだ。あなたたちは鳥よりも価値があるではないかと。