律法は聖なるものであり、正しく善いものである。罪は限りなく邪悪なものである。律法がそのことを証明している。パウロが辿りついた結論です。

 しかし目を転じて自分自身を見つめてみると何と!自分が望むことは実行せず、返って憎んでいること(15)をしている自分に気づいてしまったのです。そしてそういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪(17)であることにも気づいたのでした。

 自分の心は神さまの律法を喜んでそれに従いたいと願っているのに、肉の体には別の律法があって望まない悪を行っているということに。パウロの心と体とがバラバラになっているのです。内部分裂を起こしてしまっているのです。「律法を守る人は律法によって生きる」と教えられ信じて生きて来たのに命をもたらすはずの律法が、自分を死に導くものであるなんて…。彼の落胆と失望は如何ばかりであったことでしょう。

私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。

 あのパウロがこう激白しているのです。懸命に信仰の道を歩き続けている人ほどこのパウロの嘆きに衝撃を受けるのは当然です。その人自身の嘆きでもあるからです。

 しかし実は絶望する必要はないのです。パウロはちゃんと答を、素晴らしい答を持っていました。その片鱗が今朝のテキストに見え隠れしています。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝、という彼の言葉が大きなヒントです。さぁ、命に至る答が何であるか考えてみてください。