1章で異邦人の罪を、続く2章でユダヤ人の罪をそれぞれ指摘したパウロの手紙は実は今朝のテキストを飛ばして3章9節へとすんなり続いていきます。なので3章1節から8節は「脱線部分」とか「少し別の問題に関わる」とか言われたりもするそうです。でも新約聖書の時代でも一枚の便箋、一滴のインクは貴重だったはず。そんな中でパウロが有っても無くても…、みたいなことを書いたとは思えません。是非とも「今、ここ」で語りたかったこと、語らないといけないことだったに違いないのです それは何だったのでしょうか…。

この箇所から聞こえてくるのはパウロとローマ教会に所属するユダヤ人キリスト者たちとのディベートです。しかもそれは実際の討論の実況ではない、パウロが想定した対話でした。パウロは自らユダヤ人でありしかも人一倍同胞愛の強い人であったようです。だから真剣にユダヤ人キリスト者たちを真の福音に立ち返らせたかったし、ユダヤ教徒たちを回心させたかったに違いありません。パウロはローマ式の討論法を手紙の中で展開しています。彼らが陥りやすい過ちや福音に対する誤解を、彼らの口を通して語らせてはひとつひとつ論破するという、ローマ人に理解しやすい論法を用いて書く方法を選んだのです。そしてそれは、単にユダヤ人のためだけの手紙文ではなかったのです。パウロは彼の書簡の読者に異邦人をも想定していました。彼の時代から下ること二千年の時代に、東洋の最東に位置する国に生きる私たち日本のキリスト者たちもその射程に入れられていたのです。