今朝はコロナ災禍の中ながら伊川教会の永眠者記念礼拝を献げる事が出来ました。感謝いたします。
イエスさまは、悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる、と仰いました。字義通りに受け取るには抵抗のあるお言葉です。人は自らが悲嘆の中にある時には、他者によって慰めを受ける場合と一層の悲しみや怒りや孤独感を強めてしまう場合と、二通りがあるように思います。方や友の悲嘆を慰めたいと願う時には、その思いが強いほどに人間の限界に突き当たってしまうように思います。一人一人が固有の心を持ち体を持っているゆえに両者は完全にはひとつになり得ない、完全な共感や伴いは不可能という限界です。しかし人となられたイエスさまはその限界を超えてくださいました。人の悲しみに完全に共感してくださりその悲しみから立ち上がるために必要な一切を与えてくださいます。何故イエスさまは人の悲嘆がお分かりになるのか。神だから?そうではありません。イエスさまご自身が悲嘆の極みを歩まれた。人の悲嘆のすべてをその身に引き受けられたからです。真実の共感と伴いが、人を癒やし悲しみから立ち上がらせます。悲しむ人は幸いというお言葉は、人を愛し人となられて苦難を経られた方のお言葉ゆえに真の慰めなのです。イエスさまが私の悲嘆を共有してくださる。この天上の事実が悲しむ人を真に慰め根本から癒やします。誰もが悲しみに襲われる。でもそこに共感し伴ってくださるイエスさまが居られるから恐れはないのです。