エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて。41-42節

 もうずっとずっと昔のことです。重度の身体障がい者となった両親の介護が始まって間がなかった頃のこと。私の大変さを知った近所のママ友が、「祈らなければ…」と呟きつつ目の涙を拭ったのです。私は心の底からびっくりしてしまいました。よその家の大変さに同情して涙まで流すなどということが信じられませんでした。

 それから彼女に誘われて初めて出かけたキリスト教会の特伝の夜のこと。「決心」が上から降りて来て2か月後のクリスマスにバプテスマを受け、私の信仰生活が始まり、今に至っています。

 やがてヨハネ11章35節を読む機会が与えられた時、あぁそうだったんだ!と溜飲が下がる思いがしました。彼女の涙の訳が分かったのです。あの時彼女と一緒にイエスさまが居て下さったのです。そして「あなたの悲しさが分かるよ」と、優しい彼女の存在を通して涙を流して下さったのです。

 日本には八百万の神々がおわすと言われますが、こんな私のために涙を流して下さる神さまはイエスさま以外ありません。悲嘆に暮れる人を前にして、少しでも悲しみを分けてくれればと思うことがあります。

 同時にそうはいかない自分と向き合わなければならなくなります。真の共感は人間には不可能という現実に行き着いてしまうからです。自分自身に失望してしまう。

 でも大丈夫。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いから。(コリント二12:10)真の平和そのものなるイエスさまに一切を委ねて安泰だからです。