「終末の裁き」をテーマとするマタイの3部作の3つ目の譬え話から聞きます。登場するのは、父親の言いつけに背いたものの、後で考え直して従った兄と、仰せの通りにしますと言いつつも、考え直すことをせずその約束を守らなかった弟です。自分はどっちかな…と考えてみましょう。譬え話では異邦人が兄に、神の民イスラエルが弟に喩えられています。私はキリスト者だから弟でしょうか。異邦人だから兄でしょうか。必要以上に自らの信仰を過小評価せず過大評価せず、聖書のみ言葉に照らして客観的に信仰を見つめてみるよい機会かもしれません。
マタイは徴税人でした。ユダヤ人であり数少ない教養人でしたが徴税人という職業によって同胞から蔑まれ、イスラエルの共同体から弾き出されていました。そんな悲しみを内包する彼だからこそ「二人の息子」のたとえや、20章1節からの「ぶどう園の労働者」のたとえ、といった固有の資料による記事を書くことが出来たのだと思います。異邦人の痛みに寄り添うことが出来たのだと思います。今朝のテキストは、イエスさまに声をかけて頂いて考え直し生き直しを始めたマタイ自身の証しであり同胞に対する切なる祈りでもあるのでしょう。躓きや辛い過去、恥や失敗や喪失感、劣等感…。それらが人を自己放棄と真の神への信仰に向かわせるのかも知れません。そう思うと人生に無駄なものは何もないことに気づきます。おっと!今朝の「まえせつ」は個人的な感慨になってしまってマス。コレもきっと無駄ではない…(?)