「熟成」に思う

 9月18日の岸執事の説教の中に「ぶどう酒」が出来るまでの解説がありました。聞きながら私は「熟成」という言葉を思い浮かべていました。

 熟成とは「時間が経って十分な頃合いになること、美味しくなること」。熟成とは時間が為せる業なのです。水甕の水がぶどう酒に変わったのは「時を支配されるイエスさま」ならではの神的み業でした。熟成に人が関与出来るのは初期段階での補助的作業と「待つ」ことだけ。

 阪神淡路大震災発災前夜に仕込まれたウスターソースが難を免れ(結果的に)寝かされて20年、至極の味に仕上がっていたとも聞きました。これも神的み業のひとつでしょう。

 「待つこと」にはどこか消極的なイメージが伴いますが「熟成」を信じて待ち続ける姿は信仰的でさえあります。コロナ危機で何もかもが変わりゆく中「待つこと」がとても歯痒く辛い気がしますが、私たちはドーンと構えて「待つ」教会でありたい、です。