イスラエルは、とかく誓いを立てる民族であったようです。それは裏を返せば対話の中に真実がなかったということです。嘘が平然と横行していたからこそ、真実を語る時には、これは真実だ、と誓わなければならなかったのです。
イエスさまの言葉から、人々は天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて誓ったことが分かります。この「かけて」と言う言葉は、何か自分にとってとても大切なもの、それが天であり、地であり、エルサレムなのですが、もし誓ったことが果たせなかった場合、その大切なものを失うのも辞さない、そこまで覚悟してこのことを言っているのだ、そんな意味になります。
本来なら神にかけて、誓いたいのだけれど、それでは余りにも畏れ多いことから、神さまを彷彿とさせるものにかけて誓うようになった、などと言われます。従って誓いだらけの時代には、神殿、神殿にある黄金、祭壇、献げ物などなど、かけるものが限りなくあったと言われます。何を話すにも、二言目には「誓う」と言わなければならない対話、会話の虚しさは、如何ばかりであったでしょうか。
現代も言葉に真実味の無い時代だと私は思います。「巧言令色少なし仁」という言葉がありますが、上辺を取り繕っておけば何とでもなる、といったような風潮が幅を利かせているのが現実です。そんな空虚な時代にあっても私たちキリスト者は、内住のイエスさまが常に私を見張っていて下さることを確信しているので、飾りも嘘も、取り繕いも必要ありません。自由で自分らしく生きています。その正直な生き方をもってイエスさまの香を周囲に漂わせ続けたいと思います。