それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。14:12

 申し述べる。最後の審判ではあくまで自分自身を語るのであって、他者についての論評や告げ口を言い募るのではない、とパウロは言います。

 日々どんな生き方をして来たか、何を誰に語り誰に何を行って来たか、私が問われるのです。10節の「裁きの座」では、言い開きや言い訳をあれこれ申し述べるだけではありません。すべての舌が神を誉め讃える座でもあるのです。日々神さまに感謝を献げる信仰者が、終わりの日に主の御前にまかり出でて言葉を発する。その口から出て来るのが申し開きや言い訳であろうはずがありません。日常の言葉や祈りの言葉が出て来るのです。力一杯の賛美や感謝であればいいですね。

 教会の中で時に考えが対立して衝突が起きることがあります。そんな時に本当に深刻なのは、表面的な違いのあれこれではありません。派閥や伝統や、形式や方法や、習慣や行動の違いでもないのです。不毛な議論を続ける間に教会員の信仰的な生き方や考え方が弱ってしまう、教会の霊性が低下してしまう、これこそが問題なのです。

 だからキリスト者は、やがて神さまの御前に出でて申し述べる日が来るということを心に留め、落ち着いた穏やかな言動を意識的に心掛けるべきなのです。そうであれば少々の対立が起きても、違いを喜び合えるはずです。教会員一人ひとり「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの。」そう告白できる信仰者を目指して共に教会の時を歩んでましょう。