新生賛美歌652番と聞くと今朝のテキストが心に浮かびます。「罪深い女」というレッテルを貼られていた女性には、振り返ってみたらそうされても仕方ないような過去があったのかも知れません。でもこの女性は、私はもう駄目だと人生を諦めるのでなく、それじゃと開き直るのでもなく、この膨大な罪を赦されるためには何をしなければならないのだろう、どうすれば罪が赦されるのだろうといつも思い巡らせていたと思われます。そんな彼女の耳が捕えた噂は、ナザレのイエスという人が罪を赦す権威を持っておられるということでした。罪を赦す権威を持つ方が神さま以外あるのだろうか…。女性は、その方こそ真の神さまかも知れないとの確信に至ったかも知れません。そうであって欲しいとの切なる願いが彼女を駆り立て、イエスさまの許へと導きます。

 イエスさまは、ファリサイ派のシモンというユダヤ人の家におられました。食事の招待を受けておられたからです。厳しい律法を守ることでファリサイ人としてのアイデンティティを保っていたシモンが、日頃から取税人や異邦人や遊女といった、彼らのいう汚れた者どもとの交流のあるイエスさまを食事に招待したのには下心があったからでした。心のこもらない接待をしていたシモンの家の食事の席に、くだんの女性は駆込んで来ました。そして泣きながらイエスさまの足に高価な香油を注いだのです。イエスさまは、このハプニングで一層不機嫌になったシモンに、その女性の行動の理由、動機に目を向けるよう仰います。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」さてシモンにはこの主のお言葉の意味が分かったのでしょうか。今朝のテキストには「癒し」という言葉は出て来ません。でもイエスさまが「安心して行きなさい。」と仰ったことでこの女性が全人的な「癒し」に与ったことが分かるのです。