執事 鮫島能章
このたとえから私たちは何を学ぶのでしょうか。ここでの花婿が明らかに再臨のイエスキリストだと言うことはお分かりになるでしょう。そして花嫁が教会であると読み取れることができます。
「だから目を覚ましていなさい」とあります。しかし人は眠らずにずっと起きていることなど不可能です。ですから目を覚ましつづけることを賢いと言っているのではありません。現に、賢い乙女も愚かな乙女たちと同じく眠ってしまっていたのです。目を覚ましていなさいというのは身体的な事ではなく、霊的な意味で、主を待つ心において目覚めているという事なのです。キリストの再臨をうっかり忘れていた、というのでは、目を覚ましていたとは言えません。そのことを、ここでははっきりと「愚かだ」と断定しているのです。
ここでの愚かな乙女たちにしても、花婿の到来をずっと待ち望んでいたはずです。彼女たちも、主の再臨を待ち望んでいます、と主張したいはずです。要はそこにどれだけの真剣さがあるか、ということだと思います。ちょっと厳しすぎるような気もします。しかしイエスさまはそんなうっかり者のクリスチャンでも、心を入れ替え、イエスさまの再臨を待つ気持ちを持ち直せば、喜んでくださるに違いありません。その日、その時を知るのはただ神様のみ。主の助けがあったことを、私たちは後になってわかるのです。要は、その日、その時がいつ来ても大丈夫なように十分な油を常に用意しておく、ということなのだろうと思うのです。