エゼキエル書といえば「枯れ骨」といわれるほどに有名な箇所です。エゼキエルの優れた象徴描写の中でも極めつけと言っていいと思います。絶望して精根尽き果て死人のようになってしまっていた人々が、神さまの霊(息)を吹き込まれたことによって甦る様子を描いているのですが、骨が題材なのにもかかわらず奇怪でも凄惨でもなくむしろユーモラスです。散らばっていた人骨がひとりでに動いて骨格が組み上がり、それに筋と筋肉(どこから来たのか!?)がくっついて全体を皮膚が覆い人形(ニンギョウではなくヒトガタと読みます)になる。誰も実際に見たことがないのに結構リアルに想像することが出来ます。「どっかで見た…」ような気がしたりして・・・。
 それにしても神さまの私(イスラエル)への思い入れ、偏愛とも執着ともいうべき思い入れには驚愕するばかりです。過去を問わず血筋を問わず、生まれつきの悪しき性(さが)も将来の危険性も問われない。唯々「今この時の私」を見つめていてくださる。そして、悪しきを捨てて善を行え、不信を捨ててわたしに帰れと、根負けして方向転換するまで呼び続けられるのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」「どうしてお前(たち)は死んでよいだろうか」。私はこんなにも神さまから愛されているのです。それ故に、私は善を行わないはずがない。たとえ罪を犯してしまっても悔い改めて立ち帰らないはずがない。死んで神さまを悲しませるようなことをするはずがない。何よりこれらのことに「気づかないはずがない」のです。