ユダヤ人たちが最もこだわった律法は、食事に関するものと安息日に関するものだといわれます。今朝のテキストに登場する律法学者たちとファリサイ派の人々とは、ケース毎に起こってくる諸事情の中で律法はどのように指示を与えているか、民は如何にして律法を守り抜くべきか、について豊かな知識を駆使して指導する専門家をいいました。イエスさまは前の段落で、食事(命をつなぐもの)について、今朝のテキストで、安息日(被造物への祝福)について、それぞれユダヤの宗教指導者たちが色めき立ち憎しみを抱くに至ることを知りつつ、神さまのみ心に沿う判断をなさいました。お心の内では彼らの頑なさに悲しみを覚えておられたことと思います。

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、右手の萎えた人を安息日に会堂でイエスさまが癒されるかどうか見張っていました。イエスさまを訴えるためにこの人(おそらく後天的に障がいを負った人)をわざわざ連れて来たと思われます。酷い話です。イエスさまは「安息日に律法で許されるのは善か悪か、命を救うか滅ぼすか、と彼らが決して答えられない問いを出しそれからこの人を会堂の真ん中に立たせてその右手を癒されました。答えられない二択の問答でイエスさまに挑み、訴える糸口にしようとする彼らの常套手段を使い、彼らの命ともいうべき律法を乗り越えてご自身が「安息日の主である(6:5)」ことを人々に表明されたのです。律法学者たちとファリサイ派の人々のイエスさまへの憎しみは一層燃え上がりました。しかし右手を癒された人は命をも回復することができました。新しい命を頂いたというべきかも知れません。イエスさまは今も、病に泣き霊の弱りを覚える人々の前に「安息の主」としてお立ちになり、癒しと祝福を与えてくださいます。安息日は私たちが主の許に集って再創造のみ業に与る日なのです。