悲しむ⼈々は幸いである。その⼈たちは慰められる。

 イエスさまは、その⼈たちは慰められる、と⾔っておられます。慰められる。これは受動態です。誰かが、悲しむ⼈たちを慰める。イエスさまは、それはあなた⽅⾃⾝だと⾔われるのです。

イエスは⼈々の痛みを正⾯から取り上げ、神の癒しと慰めを約束しておられる。イエスは祝福を最も必要としている⼈々、終焉に押しやられ困窮している⼈々に向かって語りかけておられる。そんな⼈々と出会う私たちは、私たち⾃⾝が、⼼貧しく悲嘆する⺠となるべきである。平和を作り、正義を打ち⽴てようと努⼒する者たちが、貧しさ、悲嘆、永続的戦争、構造的不正義、暴⼒⾏使などを⾃らの体験として共感していく時、貧しくされている⼈々、苦しんでいる⼈々、死にゆく⼈々への普遍的共感を持つ者とされる。そして平和と正義のために働くことで、悲しみと無⼒さを共に乗り越えようとするのである。普遍的な共感と連帯の⼼を持ってその悲嘆のただ中に⾜を踏み⼊れよう、とイエスは呼びかけられるのである。「⼭上の説教を⽣きる ⼋福の教えと平和創造」より

 イエスさまは私たちにかなり積極的な献⾝を呼び掛けておられます。そこまでの決⼼が出来なくても、普遍的な共感と連帯の⼼を持つことは私たちにもすぐに、⽇常的にできることではないでしょうか。⽬の前の、苦しみ悲しみの中にある⼈の気持ちを最⼤限想像してみる。どうしたら寄り添うことができるだろうかと思いを巡らせ実⾏できるかなと勇気を出して努⼒してみる。不可能なことではないように思うのです。