岸 肇

 ペトロはイエス様に問いかけました。『兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』。聖書の象徴的完全数を提示しつつ、筆頭弟子としてペトロは質問をしたのでしょう。
 それに対するイエス様の答えは常識をはるかに超えるものでした。『七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』“永遠に、無限に”赦しなさいと言われたのです。“できません、無理です”と弟子たちは思ったのではないでしょうか。
 彼らが意見する前にイエス様は譬え話を語られました。『一万タラントン(約6000億円)の借金を抱えていた家来を主君は憐れに思って借金を帳消しにしてやった。ところが、家来は自分に百デナリオン(約100万円)の借金のある仲間を捕まえて首を絞め、借金を返すまでと牢に入れた。』というのです。
 この家来、世にある私たち罪人を譬えたものでしょう。人は、『赦され続けてしか生きられない存在』です。6000億円に譬えられる深い罪をキリストの十字架により贖われて赦していただいたにもかかわらず、そこに思いが至らない。これこそが、主イエス・キリストの救い・恵みをまるで当たり前であるかのごとく捉えてしまう罪でしょう。驚くばかりの主の十字架の贖いを私たちは安価なものとしてしまっているのではないか、という問いかけです。
 「主の眼差しを信じなさい。主の下に立ち帰り、大いなる恵みにより根源的に赦され続けていることを思い起こし、感謝の中で日々を生きなさい」と、イエス様は祈りの方向性を指し示されたのだろうと思います。