この「ぶどう園の労働者のたとえ」は何度も聞いてきましたが、今朝改めて神さまのケタ外れの憐みの深さを教えられました。同時にそのお心の内を慮ることが出来ずに神さまに不満を言い募る側のひとりになってしまっている私自身にも気づかされて唖然…。
朝一番に雇われた労働者がその喜びをエネルギーに夕方まで働き、その続きで一番に報酬を受け取って帰っていったならこの騒動は起きませんでした。だから今朝のテキストのポイントは13節から15節の主人の言葉にあると思われます。物語は最後に雇われ働きに見合わない過分な報酬を得た労働者に心が向くように、彼を憐れまれた神さまの深いご愛に気づくように、構成されているように思えます。しかし神さまは実は、先に雇われて真面目に働いたのに、不公平な賃金の支払いの場面を見せられたために思わず心を乱してしまった労働者に、心を掛けておられたのではないでしょうか。恐らくこの労働者とはキリスト者、ペトロや私たちだと思うのです。信仰者として世に出て行って奉仕する中で、教会で懸命に仕える中で、神さまどうして…と思わず呟きたくなるような理不尽さにしばしば茫然としてしまうのではないでしょうか。その時にこそ「友よ、あなたに不当なことはしていない」「あなたはわたしと約束した」「わたしはあなたと同じようにしてやりたい」、イエスさまが他ならぬ私に語りかけてくださるのを聞きたいと思います。憐れんで頂いているのは他ならぬ私であることに気づきたいのです。