50節。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

 十字架の死とは憔悴しょうすいの極みに訪れるものだと思います。大声など出ないのではないでしょうか。しかしイエスさまは大声で叫ばれたのです。共観福音書は記しています。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂けたのだと。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのだと。イエスさまの叫びは、聖所と至聖所つまりは神と人とを隔てていた神殿の垂れ幕を完全に引き裂いたのです。それは人が、罪あるそのままで神に祈ることができるようになったことの徴であったのでした。

 十字架の傍らで一部始終を見ていたローマの百人隊長や見張りの兵士たちは、本当にこの人は神の子だった、と告白しています。その姿は感動的です。しかし、非常に恐れ、とも書かれているのです。それが信仰の告白であったのか、またその信仰がそれから育っていたのか、いずれも定かではありません。信仰はパッションではないし、高揚感だけで続くものでもないからです。

 ただ彼らの姿は福音が異邦人世界へと拡がった新しい時代を、彼の時代の人々に彷彿とさせるものではあったでしょう。長い時を経てその時代は確かに到来しました。二千年後の現代、異邦人である私たちが、異邦の地日本において福音宣教に励んでいるという事実。これこそそのことの確かな証し、私はそう思います。