今日の聖書の箇所は「実のならないいちじくの木のたとえ」です。

 ぶどう園の主人は、園丁にいちじくの木をぶどう畑に植えさせておき、実のなるころに畑にやってきたと思われます。しかし実を見つけることはできませんでした。ここには「3年もの間」とあるので、この物語のぶどう園の主人は、4年目に実がささげられるのを待っている神さまご自身を表している、と考えられます。しかし、実を見つけることが出来なかった。

 実を実らせない木は無駄であり、土地を無駄にふさぐだけなので、主人は「いちじくの木を切り倒せ」と園丁に命じます。ここで、園丁から予想外の発言が出てきます。木を切り倒すよう命じられた時、彼は「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。」と、主人に申し出たのです。

 3年もの間実をつけなかったいちじくに対し、それでもかいがいしく世話をする姿は、これまでユダヤ人たちに「悔い改めて神様のもとに立ち返るように」と、繰り返し御言葉を語ってこられたイエス様の姿と重なります。主人から実を実らせないいちじくの木の切り倒しを命じられながらも「もう1年待って」と懸命に執り成す園丁こそイエス様なのです。その必死な様子にユダヤ人たちへの、私たち罪人への、イエス様の憐れみと配慮、そして計り知れない愛が表れています。

 神様は、イエス様のこの執り成しに免じて、4年目になっても実をつけないかも知れないいちじくであっても「来年こそは、実をつけるのではないか」と、諦めずに待ち続けて下さるのです。