人を分け隔てする教会と行いの伴わない信仰を非難するヤコブは、さらに言います。知恵と分別があるというのならそれにふさわしい「行い」によってそのことを証しすべきではないか。人を見かけで判断する人や口先だけの信仰者にあるのはこの世の知恵ではないか。そこから出てくるのは妬みや自慢、利己主義や嘘でありそれらは悪魔から出てきたものではないか。手厳しい指摘です。
ヤコブはこの世の知恵に支配されている信仰者がそのことに気づき、正しい信仰へと回心することを心から望んでいるのでしょう。彼が目指すところは、柔和で分別があり、この世の知恵からは出て来ない良い資質を持っていて立派な生き方をする信仰者であるようです。よい資質が例えば何であるかが書かれています。純真、温和、優しい、従順。偏見がないこと。偽善的でないこと。確かにそのような人は分け隔てなど決してしないし見せかけだけの慈善や衆目を意識したパフォーマンスなどとも無縁です。
ヤコブは柔和に象徴されるこれらの資質こそ上からの知恵の現れと考えていました。柔和とはイエスさまの「人格」そのものだからです。漠然と穏やかだとか優しいのではない柔和。父なる神さまに全幅の信頼を置きすべてを委ねて謙遜にみ旨に従われたイエスさまこそ柔和のお手本です。この方を一心に見上げて倣おうとすることでやがて全身から滲み出す雰囲気。上からの賜物をそのまま受けることでその身に自然に備わっていく人格。そんな素敵なものをヤコブは柔和という言葉で表しているように思います。