ローマ書は9章に入って唐突にその内容が変化します。ローマ書の輝きの最高峰と言われる8章、福音の恵みを存分に味わえる8章と一体何の関係があるのかと慌ててしまいます。「9章から11章は後世の挿入に違いない」などと大胆なことを言う人がいるのも分かる気がするほどです。
パウロは、同胞であるユダヤ人が神さまに背いているので深く悲しんでいる、いつも心が痛い、と言います。
同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(3節)。
それ程までに同胞の救いを願っているのには驚きます。パウロは「異邦人」への福音伝道の召しをイエスさまから受けたのではなかったでしょうか。
彼がユダヤ人の回心を祈り願うのは単に彼らが同胞だからという仲間意識のためだけではありませんでした。パウロは、世界の救いのためにはまずユダヤ人が救われなければならないと言います。神さまが最初にご自分の民イスラエルとして選ばれたのがユダヤ人であったからです。パウロはユダヤ人が神さまから特別に扱われ様々な恵みを彼らだけに与えられたと言い、旧約聖書から多くの箇所を引用してそのことを証明しようとしています。
しかし私たちにとって旧約聖書は疎遠の書物、分かり辛くてつい敬遠してしまう書物ではないでしょうか。聖書日課で私たちは今「エレミヤ書」を読んでいます。神の民の背信の物語です。正にパウロの悲しみ痛みの原因がここにある訳です。その視点で読むとローマ書、新約聖書が旧約聖書を土台としていることが見えてきて朧気ながらも聖書全体を俯瞰できるかも知れません。