このエピソードの冒、2節に、人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人
の病気をいやされるかどうか、注目していた。と書かれています。この会堂にいたほ
とんどの人は、ファリサイ派の人たちに賛同する人たちであったかも知れません。そ
うであればイエスさまの問いかけに応えることが出来なかったのも分かります。安息
日に律法で許されているのは、善を行うことであり命を救うことである、と言ってし
まえば今度はファリサイ派の敵意はイエスさまだけでなく自分にも向けられることに
なるからです。イエスさまもそのことは重々承知しておられた。イエスさまはそれで
も尚、この人を実際に見た時に自分の間違いに気づき、ファリサイ派を恐れずみんな
の前で正解を宣べる人の出現を待っておられたに違いありません。今の私の心の中に
も、イエスさまの期待に応えられなかった忸怩たる思いがあります。そして来し方を
振り返れば、後悔の方が多いかもしれないとも思います。でも、本心は正しい言動を
イエスさまの前に行っていきたいのです。勇気を出して、敵対者を畏れることなく、
思ったこと、正しい答を言う者へと変えられたいと祈り続けたいと思います。