イエスさまは18年間も腰が曲がったままであった女性を癒されました。病気と身心の不自由という束縛から女性を解放してくださったのです。

 ところがイエスさまの起こされたこの喜ぶべき出来事をユダヤ人の会堂長が見咎めた。表向きの理由はこの日が安息日であったから、でした。会堂長の歪みと偽善が露わにされていきます。

 今朝のテキストはまたイエスさまとはどのような方であるかについても触れています。そんな重い内容を含みつつも中心は、一人の女性の束縛からの解放、喜びのメッセージです。

 罪の縄目から解き放たれ、イエスさまの新しい命に生きているはずの私たちキリスト者。でも自分の内外を見回して見れば「束縛されている」「罪意識から解放されていない」と思っていることの何と多いことかと愕然とします。

 先日キリスト者の友人と話していて深い感慨を覚えました。解放されずにいる束縛や消えない罪の意識を話してくださるのを聞きながら思ったのです。私には「あなたは既にイエスさまによって解放されており罪も赦されている」ように見える、と。

 更に思ったのです。その解釈は私自身にも当てはまるかもしれない、と。そうか!私たちは他ならぬ自分で自分を縛っているのだな、と。

 キリスト者は神さまの視線をいつも意識しているのでつい自分に厳しめ。自分を甘やかしてはいけない!といつもどこかで思っている。でもそれは神さまの目には滑稽に映っているのかも知れません。傍目八目の大切さと有り難さを実感したことでした。