恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか?と論敵が問う。否、決してそうではないとパウロが答えている。私はその場にいて彼らを見つつ議論を聞いている…。

 劇中の1コマを描いているかのようなこの表現方法をディアトリベーと言います。パウロは自身の書簡の中でしばしばこの形式を用いました。読者は期せずして場面の中に放り込まれ、パウロの言わんとするところを二人称でたたみかけられるのです。

 それにしてもこんなこと誰が言うかな?詭弁的な理屈から始まった6章は、結局これに対するパウロの強い否定の論証に終始しました。今朝が最後の部分です。

 罪の支配下から解放されて義の支配下に置かれ、それに仕えるようになった私たちが行き着くところはどこだろう…。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。読者は最終的に、上からの一方的な恵みに満ちた結論へと導かれていきます。

 誰が知らないといって自分ほど自分を知らない者はいない。歳を重ねるほどにこの思いが強くなってきました。言い募ろうとする自分を自制するようになって来ました。物忘れも勘違いも多くなったという現実的な理由もありますが、むしろポジティブに捉えて自分を握り締めていた手を緩めることが上手くなったと悦に入っています。神さまに持ち運ばれてこの境地に至りました。

 ここで賜物を下さるというのであればそんな資格は私にはないので嬉しい限り。遠慮なく頂いて思い切り感謝しようと思っています。