昨年の下半期に入ったあたりから、礼拝出席者数が増えてきました。嬉しいことです。最初に「あっ、増えてきているかも…」と思った時、同時に胸に涌き上がってきたのは、遂に神さまの時が神戸伊川教会にも満ちてきた!という驚きと感動でした。

この教会に着任して7年。教会や自分自身のこれからを思うとそうそう楽観的な気持ちになれないのが正直なところ。神さまどうか人を与えてください。できれば信仰の成熟した若い一家の転入会を希望します…、なんて勝手な願いをそれでも日々真剣に献げています。祈祷会でも祈っています。でも人数の変化を知った時祈りが聞かれたとは何故か全く思いませんでした。神さまは私たちの群れを忘れておられたのではないんだ、ちゃんと時を与えてくださるんだ、という感謝と納得でした。

それなら祈りは要らないのか、祈っても無駄なのか、という話になります。祈りが不要でも無駄でもないのはいうまでもありません。祈るからこそ、私たちは神さまの時を知ることができる。パウロは「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」「キリスト者は新しく創造された者だ」といいます。パウロが「新しくなった」という時、例えば黒の地に白のペンキを塗るように劇的に変化した、との意味で言っているのでしょうか。むしろキリスト者が、長い信仰生活を経て、来し方を振り返った時、神さまによって自分が新しくされたのはバプテスマの時だったと感慨深く語るような、神の時の流れの中でしか見えて来ない新生や再創造を言っているのではないか。そしてそれが分かるのは、祈っているからこそ!私はそう思うのです。

(2019年元旦礼拝説教より)