仮庵祭の最後の夜、まばゆい光の下で、イエスさまは「上から来た者であり、この世に属していない神の子である」ことを証しされます。しかし、ユダヤ人とりわけファリサイ派の人たちはイエスさまを信じることが出来ず、受け入れようとはしません。
ユダヤ人たちは十字架の出来事によって「イエスさまこそ、まことに神の子であった」こと「わたしはある」というお方であったことを知ることになります。
わたしたちの日々の生活の中で、この「わたしはある」とイエスさまのお言葉がどれほど力ある真実のものになっているでしょうか?わたしはあるという方を本当にわたしたちの内に迎え、共に生きるなら、わたしたちは一人で悩み、苦労するのではなくイエスさまのおられるところに向かって、もっと解放され軽やかな歩みが出来ます。
命の光であるイエスさまと共に歩む。日々の祈りの中で共にいてくださるイエスさまを見出すことが出来、そのイエスさまによってわたしたちは絶えず力づけられ、励まされ、慰められるのです。
最後までイエスさまを信じることができなかったファリサイ派の人たちとは対照的にヨハネ福音書8:30では「多くの人々がイエスを信じた。」と記されています。
わたしたちも素直にイエスさまのお言葉を信じ、共に歩む者でありたいと思います。
執事 酒井紀世子