私は思うのです。平和とは、結局は一人一人の心が安らかである、落ち着いて生きることが出来ている、そこから始まっていくのではないか、と。あくまで原則論ですが、すべての人の心が安らかで、毎日落ち着いて生きていけるならば、世界平和は自然に実現していくはずです。そうでない人たち、毎日不安で落ち着いて生活が出来ないでいる人たちが、各々の状態から脱出して安全安心な環境に置かれるならばそこには平穏が訪れる。平和が実現するはずです。

 この平和の実現のためには、伴走者が、サポーターが、必要です。誰が彼らのサポーターとして最も相応しいのでしょうか。彼らが今置かれている状況を、かつて自らが体験した人たちなのではないでしょうか。同病相哀れむと言う言葉があります。自分が体験したからこそ、相手の気持ちが分かる、どうすればよいか想像できるはず。モーセが19節で語っているのは、実はこのことなのです。

あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。

 寄留者とは放浪者、特定のコミュニティに属さないよそ者です。放浪者の悲哀はイスラエルが一番よく分かっている、身に沁みている、だから彼らを愛せるはずだと、モーセは言っているのです。これはこのまま現代に通用するのではないでしょうか。

 人に寄り添うことは難しいし、面倒なことです。傷つくことも損することも覚悟しなければなりません。しかしそれでもなお寄り添いたいと願い、行動に移していく時に、そこに小さな平和が生まれていくのではないでしょうか。そして平和は伝播していくのです。