19節でパウロは「できれば、せめて(18節)」が通用しない深刻な場面を想定して語ります。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。人には生来「正義感」というものが備わっています。「悪に悪を返さず」とはいえ悪事を許すわけにはいかないような、正義感がザワつくようなケースもあるしどんなに抑えても復讐しないでは済まないようなケースも現実には起こり得るのです。そんな状況を踏まえつつ、しかしそれでも人の道を踏み外すことなく正義を求める方向へと向かうべきだ、とパウロは言うのでしょう。自ら復讐することを断念し怒りを神に委ねるように、との戒めは古くから語られて来ました。例えば詩編37編です。
【ダビデの詩】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな(1)主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ(3)。主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる(4)。沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな(7)。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない(8)。悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ(9)。
ただ、復讐を神に委ねるとはいえ旧約の教えと新約の教えでは意味が異なることに注意が必要です。イエスさまはご自身の敵であった私を十字架にご自分の命を落とすことで赦し救って下さいました。これを思う時自分の復讐心自体が問われるのです。