御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)

 「万事」というキーワードに注目すると「人間万事塞翁が馬」という言葉を思い出します。これは古い中国の哲学書「淮南子」に記載されているある故事から生まれた教訓で、人生の幸不幸は予測できないという意味だそうです。さらに拡大解釈をすれば良いことも悪いことも予測できないのだから、禍福ことごとに振り回されることはない、悪いことが続いても今度は良い事があるかも知れないのだから落ち込む必要はない、といった意味で励ましとして使われるとも言われます。

 そこでローマ8章28節の「万事が益となる」と「万事塞翁が馬」とを比べてみます。キリスト者であっても人生の幸不幸は予測できないのは同じです。しかしキリスト者はこの世に言う「禍」に巻き込まれても、原因の追求や犯人捜し、時に自分を責める、などということはしません。「何故私がこんな目に…」という被害者意識ではなく「何のためのこの禍か」と問う。「禍」に積極的な意味や神さまのご計画を見いだそうとする。つまり「禍」を避けるのでなく活用しようとするのです。

 この違いが顕著に現れるのが「この世を去る時」です。多くの人は「自分の人生には果たして意味があったのか」と苦しむと言います。しかしキリスト者は「禍」の自分への意味を知ろうとし、また積極的に受け入れていくために、人生のどの場面も「私にとって意味のあった」と言い切る事ができ、従って悔いが残らないのです。