神さまから選ばれ、愛され、手を引かれるようにして歩んで来たはずのユダヤ民族がなぜイエスさまを受け入れず、福音を信じようとしないのか。同族としてそのことに心を痛めるパウロは、その疑問を解いてイスラエルの信仰熱心を正しい方向に向け直させようと、ローマ書において旧約聖書を根拠に熱弁を振るいます。そのくどいほどの弁証を読みながら、私は改めて「神の時と人の時の違い」を思わされています。

 詩篇の詩人が「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」(84:11)と感動をもって詠いましたが現代、神さまの一日は人の千年にも匹敵するのではないでしょうか。

 私はキリスト者になる以前から、概観しか見ていないにもかかわらず「キリスト教会ってどこか時代遅れだ」と感じていました。キリスト者となった今それは「キリスト教会の旧態依然の体質」という明らかな課題となって私の前に立ちはだかっています。そしてその根本的な原因を私はパウロの悩みに見る思いがするのです。

 「神の民」であることにこだわり続けるユダヤ人たち。モーセからイザヤを経てパウロまで2000年の時が流れました。「神の民」はユダヤ教という民族宗教の信徒から「キリスト者」という世界宗教の信徒へと変わっていくはずでした。それが創造主なる神さまのご経綸だからです。

 ところが一部のユダヤ人はこの変化に乗り遅れたのです。そして現代のキリスト者の中にも「神の民」を無批判に踏襲する信徒があるのです。非営利団体という団体の資質も原因のひとつでしょうが「怠慢」という誹りは免れないだろうと私は思っています。